年金制度について

●年金制度ははたしてこのままで大丈夫なのだろうか?
そう考えるのは当然です。では、一体どうしてそういう事態に陥ったのでしょう?

年金は社会保障としてのセーフティネットあるいは世代間の相互扶助をお題目として掲げるのであれば、何ゆえ、支払いを法的に義務化しないのか?それが、疑問でした。そして、勤務会社が本人保険料の半分を負担してくれる厚生年金、議員年金、共済年金などの極めて優遇的な扱いと国民年金とのあまりにも不公平な“格差”はいったいどういう事なのだろう?と考えています。

 また、近年における社会保険庁の不祥事が年金問題に対してさらに拍車をかける事になったのは事実です。それが、きっかけとなり様々な年金のカラクリが見透かされています。生活保護手当てより、低い年金支給額という厳しいこの現実は“年金で豊かでバラ色の老後”を信じて、掛け金を払い続けてきた国民へ対する大きな冒涜です。

 驚くべき事実は、年金の始まりは国民の老後のための基金ではなかったことです。
厚生年金の前身である、船員年金と労働者年金は1940年(昭和15年)にかけて戦争を契機に開始されています。お手本は、ナチス・ドイツの年金制度です。ナチス・ドイツはこの国民からの得た資金でアウトバーンをやヒットラー・ユーゲントに支払っています。アウトバーンは飛行機の離発着を想定とした、軍事利用目的の高速道路ですし、ヒトラー・ユーゲントは将来ナチスを担うであろう悪の枢軸国家の戦争キャリアを養成するための教育機関です。まさに、軍事費をさらに国民が負担し続けてきたのです。これは、年金の出発はすべて当時の国策でありますし、その意義を甘く骨抜きにして戦後に引き継がれた国家的集金手段であったことがよくわかります。そして、日本はこの骨子を直接的になんらの意識もなく移植したのです。金集めが第一義にあったわけです。

これを見て、明らかなように、私たちの国家は様々な言辞と策略を弄して、国民から金をむしりとり、それを浪費してきました。そして、“豊かな老後のため”というばら色のキャッチフレーズは後付け事項に過ぎなかったのです。浪費する側が“国民の将来、老後のために”というという意識は皆無であり、きわめて夜郎自大な感覚で消費続けことは後に誰も行かないような豪華な保養施設を次々と作り続けたことがそれを語っていますしそうして、年金を運用し続けてしかも失敗を重ね続けて人たちのだれもがその責任をまっとうしなかったことは国家的犯罪ではないでしょうか。そして、資金運用に関しては、危険回避、市場動向をまったくといっていいほど無視し、高齢化、少子化という時代的な流れがそれに盛り込まれていません。やはり、消費する側の国家が国民に対して、どこかしらの後ろめたさがあるので、あえて(自分の任期中は)改革を声高に叫ばないのではないか?そういう後ろ向きに退いている感情があります。

それがために、国民、とりわけ若年層が年金を払わず、国家に対してどうしようもない不満ならびに不信感を抱くという構図になっています。私が年金を支払わなければならない年齢に達したとき、『果たして年金は支払われるのだろうか?』という漠然とした不安がありました。しかし、一方ではまだ大丈夫だろうという漫然とした感情がありました。我々もこうした国家的な犯罪に対して、先送りしてきた姿勢があります。これは、自分としましても猛省すべき点であります。私たちには次世代へ“未来の灯火”を受け渡す義務があります。

高齢化、少子化が倍速で進むなか、年金の意義、役割、必要性をもう一度、深く検証し論議し尽くすべきです。そこに、過去の年金問題への責任論も出てくるでしょうし、何よりもこれから先の未来への視点が示されなければなりません。弱者への最低限の配慮をも含めた社会相互扶助としての年金の役割は最重要課題であると考えます。この転換のときに、年金制度の見直し、改革案をもう一度考え、保険制度として税制に切り替え、だれもが納得するような公平なシステムを作り上げる事こそが急務だと考えます。私たちはそれが正しい道を歩んでいるかを常に監視し、よしんば不正が行なわれた時にはそれを糾弾するなどの発言していかなくてはなりません。真の公平な年金制度改革が行なわれる事を強く願います。

参考:2007年7月9日、朝日新聞 斎藤貴男 氏の論説